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江戸から令和につながる「京焼・清水焼」。 時代の絵師たちが残した功績をリサーチしてみた

京焼・清水焼

リサーチャー 本間恵理

京焼・清水焼

西陣織や京友禅と並ぶ、京都を代表する伝統産業の一つ「京焼(きょうやき)・清水焼(きよみずやき)」。京都市内の各地で作られる焼物を総称して「京焼」と呼び、その中でも清水寺から続く五条坂近辺で作られるものを「清水焼」と呼ぶそうです。

高級品のみならず日常使いができることを目指して伝統を繋いできた器たち。ハレの日もケの日も、ふと食器棚から取り出して思わず眺めたくなる色使い。何を盛り付けようか、どの器と合わせようか。そんなふうに「生活に馴染む」デザインが特徴です。

京焼・清水焼

この絵付けの起源を調べてみると、江戸時代にさかのぼります。それまでは中国や朝鮮の美術品を模倣することを「写しもん」といって尊重する文化がありました。ところが、京焼の祖といわれる陶工・野々村仁清(ののむらにんせい)によって、“写しもん”から、山水や花鳥など日本の風物をモチーフにした色彩豊かな“色絵もの”へと、京焼全体の作風を変えたのです。江戸後期、いよいよ、京都の復興と京焼の繁栄が期待される時代が到来します。

ところが、明治維新に際して京都から東京への「遷都」が決まり、有力者らは東京へ拠点を移すことに。京焼は大事な顧客を失って窮地に立たされます。そこで目を向けたのが、海外でした。当時は海外の博覧会でジャポニズムと呼ばれる日本熱が広がっていた時代。京焼の一種「粟田焼(あわたやき)」に薩摩焼色絵の作風を取り入れた「京薩摩」は、圧倒的な人気を得て京都の陶磁器輸出の急増に貢献します。明治6年(1873年)のウィーン万博で、ようやく「京焼・清水焼」の魅力が世界に知られることになります。

ところが大正に入ると、またまた危機を迎えます。今度は、陶器は仁清の模倣だ、磁気は中国の模倣だといわれ、厳しい目を向けられるように。時の名工たちが紡いだ京焼の伝統絵柄も、世界の工芸愛好家たちのお眼鏡にかなわなければ生産量も貿易も減ってしまいます。ここからどのような復活を遂げたのか?ある清水焼職人が書いた著書にこのような記述がありました。

明治維新の大激震で、職を求めて京焼・清水焼に流れてきた京の町絵師たちは期待をもって受け入れられたのである。
(中略)この町絵師たちは、京焼・清水焼に端正な美しさをもつ四条派や円山派の絵付けを広め、新しいデザインの必要性を感じさせる功績を残したが、外にも数々の有り難い足跡を残してくれている。その一つは仕事の合間や夜の時間を割いて、日本画の練習の必要性を説き、写生や運筆の手ほどきをしてくれた事である。松竹梅・四君子・四季折々の草花・花鳥等の手本を画いて写さす即席の指導法である。
(中略)彼ら京の町絵師たちが京焼・清水焼から去っていった後、志のある絵付け職人は、京絵師の画塾に入門して腕を研いた。

参考:「逆光のフラット・ライトー無名の清水焼職人群像ー」
岩國起久雄 京都書院

京焼・清水焼の伝統を受け継ぐ職人のみならず、明治維新の影響で職を失った町絵師たちが途中から参入し、意外な功績を残してくれたなんて、なかなか面白い話ですね。

江戸から令和へ歴史を紡いできた「京焼・清水焼」の絵柄

京焼・清水焼

大正11年創業、京焼・清水焼窯元 陶あんの作品。こちらの窯元も、江戸の名工・野々村仁清やその弟子で絵師・尾形光琳の弟である尾形乾山(けんざん)の伝統絵を受け継ぎつつ、常に技術革新に取り組んできました。現在は四代目が当主をつとめています。

器の内側に満開のヒマワリの花が描かれたデザイン。種子にあたる中心の部分を観察すると、粒子のような細かい粒が描かれています。器を傾け、角度を変えて眺めると、今度はキラキラと反射して見えるのです。こうやって焼き物を見て楽しむことも、また一興。
江戸から令和へ、京焼・清水焼業界が受け継いできた絵の技。江戸時代の名工たちが生み出した伝統と、町絵師が残した功績なくしては語れません。


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