コンサルタント中野のプレゼンテーションに興味を抱き始めた社長の山岡。
しかし山岡が放った一言は意外なものだった。
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「『攻殻機動隊』、好き?」
山岡に唐突に話題を振られた中野は、一瞬あっけにとられた。
この人、真性のオタクなのか?
確かにこの社長室という名で呼ばれるサーバルームのドアには「公安9課」のプレートがあった。
それは『攻殻機動隊』を知っている者なら知らない者はいない、攻殻機動隊と異名を持つ特殊機関の呼称である。
ICT業界の人間であれば、電脳世界を描き出したこの近未来SFマンガに心酔してもおかしくはない。
ええ、好きですよ、と言おうとして、中野はその言葉を飲み込んだ。
にこやかに微笑む山岡を見て、中野はあることにやっと気づいたのだ。
やばい。この人、完全にやばい人だ。
ちかちか点灯するサーバから1本ケーブルが伸びており、どうやらそれは山岡の後頭部に刺さっているようだった。
コスプレーヤーどころの騒ぎではない。
この人、サーバと脳を繋いで向こう側に行っちゃってるわけ!?
中野は背筋が凍り付いた。
どうしてさっきの名刺交換の時に気づかなかったのか……
中野博、一生の不覚!
あれだ、この折りたたみのテーブルとパイプイスのせいだ、気を取られていたのか、なんてことだ……!
それでも笑顔を絶やさないでいられたのは、いろんな業界の、いろんな人間と接しているお陰であった(ご存じのように、いろんな所にいろんな人がいるものである)。
しかし百戦錬磨の中野でもその黒いケーブルを凝視しないでいることはかなわなかった。
その視線を受け、山岡は、ん? と背中に手を伸ばした。
そしてケーブルに手が触れると、参ったな、という顔をして言った。
「ああ、これ? 自分がサイバーパンクの主人公になったみたいでね、まあ趣味だよ、趣味。変わった趣味かも知れないけど、お恥ずかしい、見られちゃったね、外すの忘れていたよ、ははは。
『攻殻機動隊』が好きでね、あれこそ正に近未来を描き出したものだよ、原作は90年代初めだからね。もちろんウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』も読んだけど、視覚化したのはすごいよね」
山岡の言動が中野の想像の許容内であったので、ものすごく小さなため息で何とか切り抜けられたのは、天幸と言っても過言ではなかった。
中野もははは、と笑うことが出来てほっとした。
なるほど、ヴァーチャルな世界を体験したくて、それで社長室がサーバルームにあるのか……。
「いつかこうやって脊髄に直接信号を送り込んで、やり取りできる社会が来るかも、って思うんだよ。夢を忘れてはいかんよね」
と言って、山岡はケーブルをデスクの上に置いた。
「そうですね、ははは」と中野は態勢を再び整えて言った。
「SFは常に現実社会の先を行っています。恐らく優れたSF作家の中に、人々の無意識の願望が時間を超えて流れ込んでいるのではないでしょうか。そして未来のビジョンを見るのです。僕もドラえもん、好きですし。もちろん『攻殻機動隊』も好きです」
「なるほど」と山岡は満足そうに言った。
この場を何とか無事に切り抜けられたことに、中野は心底ほっとした。
やれやれ、映画版だけではなく、テレビシリーズも途中で止めていたけど、全部観ないとな。また資料が増えた。
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