これまでのあらすじ
近藤は中小のICT企業で働くエンジニアである。社長の山岡より、SaaS型の新規事業を興すように依頼されたが、全く当て所のない近藤はどうしたものかと途方に暮れてしまう。
たまたま目にしたネット記事でSaaS型アプリケーション開発の成功事例として取り上げられていたコンサルタントの中野のことを知り、コンサルティングに賭けてみることにした。そして社長の山岡と中野が対面することに。
近藤のセッティングで、ついに社長の山岡と対面することになったコンサルタント中野。
そこで中野が見たものは……。
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中野は目を疑った。
デスクの向こうに一人男が椅子に座って、タバコの最後の一吹きを済ませたところだった。
男は灰皿にタバコをぐいっと押しつけ、火を消した。
中野が驚愕したのは、男の隣に、サーバラックに収められた何台ものサーバのインジケーターがめまぐるしく点滅していたことだった。
どうしてサーバルームに社長がいて、タバコを吸っているのか?
この不条理かつシュールな空間に、中野は軽いめまいを覚えた。
4月だというのに冷房がガンガン利いていて、ひんやり底冷えする。
中野はにっこりと山岡に微笑みながら、ちらっと近藤を見た。
近藤はいつもの鈍感さで、中野の違和感など推し量ることもできず、この外部から見れば実に異常な光景について、何も感じていなかった。
言うまでもなくサーバには埃やタバコのヤニなど厳禁である。
しかし山岡は、どうしても社長室が欲しいと駄々をこね、サーバルームに自分の空間を作ったのだ。
中野はこれ以上考えてもらちがあかないし、また意味があることだとも思えなかったので、何もしないことを決め込んだ。
今までパニックに陥らずに業務が遂行できているということは、サーバーに何らかの問題――しかもそれは物理的な問題――が発生しても、とりあえず何とかなるのだろう。
よく分からないけれども。
「リスクマネジメントの意味が違う」と、誰にも聞こえない声で中野はつぶやいた。
もちろんそんな気遣いをしなくても、天井のエアコンがキュウキュウと喘息患者が悲鳴をあげるように音を出していたので、誰にも聞こえなかったのだが。
「コアシステムの山岡です」
山岡は席を立ち中野のもとにやってきて、おもむろに名刺を差し出した。
営業畑の人間に時々あるように、その動作は恐ろしく丁寧だが、どこか不遜な雰囲気が滲み出ていた。
頭を下げて営業の成績が取れるくらいなら、土下座をしたって構わない、といった類の営業哲学だ。
もちろん中野はそんなことに一切お構いなく、軽く一礼をして、名刺を差し出した。
「プラグインコンサルティングの中野です、はじめまして」
「話を伺いましょう」と山岡は言った。
「まあ、おかけください」
中野は促されるまま、近藤が用意した折りたたみ式のテーブルにパイプイスという来客用として実に相応しくない席に着いた。
中野は動じず、おもむろに命より大事な17インチのMacBook Proを例のごとく取り出し、ディスプレイを開きスリープを解除した。
あまりに小さなテーブルであったため、本体の3分の1ほどがはみ出した。
そして前を改めて見ると、何よりも山岡の顔が近い。近すぎる。
17インチディスプレイがまるで防護壁のように中野と山岡を隔てていた。
絵に描いたようなシュールさだが、常識的にこの場面を笑える者がここには残念ながら不在であった。
山岡からは断る気満々の雰囲気が伝わってきた。
この空気を変えるには、と中野は今度は心の中でつぶやいた。
「3年前に御社がリリースされたグループウェアですが」
と中野は切り出した。
「優れたUI(ユーザーインターフェイス)とグラフィック、そして一番は大変分かりやすいワークフロー機能ですね。黎明期における乱立状態から一歩抜きんでたソフトだと思います」
山岡はにこりともしなかった。
中野は続けた。
「市場でも大変評判の良い製品ですね」
顧客についての調査など、営業なら当然の仕事だ。
まあ中にはなんの下調べもなく、ただ商品を売りつけようと営業に来る一方的な奴もいるが。
「ありがとうございます」
山岡はそんなことを考えながら、無感動に言った。
コアシステム株式会社は、3年前にグループウェアパッケージを開発した。
その名も「グループ・オン」。
(後におせちで有名な某クーポン会社と商標で揉めることとなるのだが。)
主な機能は一般的なものだが、スケジュール管理、案件管理、各種申請承認、社内掲示板、勤怠管理などだ。
中野の指摘通り、明瞭なUIとワークフローの使い勝手、柔軟性が評判を呼び、それなりの導入実績を上げることができた。
このグループ・オンが呼び水となり、コアシステム社には、様々な新規の問い合わせがコンスタントに来るようになっていった。
山岡が起業してすぐに着手したグループ・オンの開発は、新規顧客獲得のための宣伝材料として必要なものだった。
基本機能はそれなりに押さえつつも、とにかく見た目や簡便さに拘り、中小企業の担当者の受け、取っ付き易さを最重視して開発した。
グループ・オン自体をより多く、長く販売することよりも、様々な仕事の「引き合い」に繋がることが何よりも重要だったのだ。
紹介、コネクション以外でSES(システムエンジニアリングサービス)を主要事業とする中小企業が、新規顧客を開拓するのはなかなか難しい。
そうした業界事情を把握していた山岡が取ったプロモーション戦略が、グループ・オンを通じた展開だったのだ。
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